May 05, 2011
クレジットカードのご利用方法
クレジットカードは便利なのだ。お金がなくてもお買い物をすることではなくクレジットカードを使用して記録があるということだ。使用目的に応じてクレジットカードを分けておくと、それぞれどのくらい使ったれることを一目で分かるようになる。自分はこのようにクレジットカードを使用している。IDカードといえば、運転免許証が一般的ではないかと思います。自動車を運転する時はもちろん、クレジットカードを作成するときやオフィスでの本人確認をするときなどは、必ずIDカードを提示されています。顔写真と一緒に常に携帯することができます。のようなIDカード、パスポートもあります。運転免許証よりもサイズが持ち運びには少し不便なようです。
【南風原】子どもたちに南風原町で起きた戦争を伝えたい―。NPO法人南風原平和ガイドの会(赤嶺敏昭理事長)が沖縄戦のさなか、沖縄陸軍病院第1外科の看護婦だった奥松文子さん(85)=北谷町=の体験を基にした紙芝居「二度目の約束」を作製した。南風原町教育委員会を通して町内4小学校に1冊ずつ寄贈。10日には奥松さんが理事長を務める愛育保育園(北谷町)を訪ね、絵本を贈呈した。奥松さんは「あのころは生きて家へ帰れるとは思わなかった」と記憶をたぐり寄せ、紙芝居の完成に目を細めた。
県の保健婦として南風原村(当時)に駐在していた奥松さんは志願して同陸軍病院の看護婦となり、戦況の悪化で病院が同村の黄金森地下に移転した後も、任務に当たった。国のためにと意気揚々としていたが、爆弾で死傷した友人や兵隊の姿を間近に見て戦争の恐ろしさを痛感。間一髪で生き延びた体験から命の大切さを実感するようになった。
奥松さんは戦後、助産院を開業後、1978年から同保育園を運営している。
紙芝居は、体験記と奥松さんへの聞き取りを基に、ガイドの会のメンバーで南風原文化センター案内担当の西銘昌子さん(37)が絵を描き短い文章に編集した。戦争の恐ろしさと奥松さんの心の変化が短い言葉に凝縮され、丁寧なタッチの絵とともに伝わってくる。
「二度目の約束」は「死ぬことを怖がらずに仕事をしよう」と志願したときの決意、命拾いをし「今度は人のために一生懸命働こう。命を大切に生きていこう」と決めた二つの“誓い”から取った。
同病院南風原壕群20号壕を案内するガイドから、小中学生に戦争を理解させるために紙芝居が必要だという声が上がっていた。
西銘さんは「道具類を絵にすることが難しく、資料や当時の写真からイメージを広げた。子どもたちが南風原の戦争を知るきっかけになってほしい」と力を込める。
「二度目の約束」は南風原文化センター内にある同ガイドの会が貸し出すほか、販売もしている。問い合わせはガイドの会(電話)098(889)2533。
(高江洲洋子)
「第26回長岡京市人権問題研究市民集会」が11日、同市天神の中央公民館で開かれた。【短期集中連載】屋形船ならこれで充分!小中学生の作文発表やコンサートが行われ、市民ら約300人が、人権について考えた。
集会は、市教委と市人権啓発推進協議会が、市民の意識向上を目的に毎年開いている。
2010年度の人権啓発の作文や標語、ポスターには小中学生や市民から計4769点の応募があり、審査の結果、優秀作品計28点、入選作品計31点が選ばれた。この日の集会で発表され、市人権啓発推進協議会の勝田歳一会長が入賞者に表彰状を手渡した。
その後、優秀作品に選ばれた小中学生が、いじめ、虐待、障害者や高齢者の人権などをテーマに、自分の考えをつづった作文を朗読。他者への思いやりや対話の大切さなどを訴え、聴衆に「差別や偏見をなくそう」とメッセージを発信した。
コンサートでは、スポーツの練習中の事故で体に障害を負いながら、歌手として再起し、全国でライブ活動を行っているう〜みさんがステージでトークや歌を披露した。
18日まで同公民館で人権啓発の入賞作品を展示している。
「向日市からギネスに挑戦〜世界一長いたけのこの串焼きをつくろう」と銘打ったイベントが11日、京都府向日市寺戸町の京都向日町競輪場内で開かれた。
地元特産のタケノコや京都向日市激辛商店街をPRしようと、同商店街と実行委が初めて企画した。
会場では、実行委のメンバーが朝から、長さ2メートルの竹串に10個ほどの煮タケノコを刺して何本もつなぎ、全長111・1メートルの串焼きを準備。半割してつないだ竹の上で、竹炭を敷いて焼き上げた。
市民ら500人以上が集まる中、午後2時半ごろ、目標の111・1メートルの長さが確認され、拍手とバンザイで成功を祝った。来場者は出来たての焼きタケノコを味わっていた。実行委は今後、世界最長のタケノコ串焼きとしてギネス社に申請する予定。
ステージでは、向日市出身の歌手YU.KI.KOさんがライブでイベントを盛り上げたほか、子どもたちによるダンスの披露などもあり、家族連れでにぎわった。
越谷市内にある「宮内庁埼玉鴨場」は1908年にできた。晩秋になると、北国からたくさんのカモが渡ってきた。いま、都市化が進み、カモの餌場だった田畑が消え飛来する姿も減った。
戦後、進駐軍といった米兵が、頻繁に「カモ撃ち」に来た。朝夕と、餌場に向かったり、ねぐらに戻るカモを狙っていた。米兵がカモを撃ち落とすと、子供だった私たちが獲物を取りに走る。そんな少年時代を思い出す。その後もこの周辺では、1960年代までカモ猟が盛んだった。
カモは、時に土産物を持って渡って来た。千島列島などに生息する珍しいキタミソウが県東部で時々見つかる。カモがキタミソウを食べ、種を運んだとされている。
ただ、最近では高病原性鳥インフルエンザをめぐり、「渡り鳥がウイルスを運んでいる」とも聞く。わかりやすくインテリアin 通販(12):がおすすめ身近な生物だっただけに複雑な気分だ。【栗原一郎】
2月12日朝刊
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